2013年05月21日

むかしの 改札の話


公園へ行く途中

画像-0103.jpg


私は、うんじゅうねん前に
板橋の北のはずれ、小豆沢(あずさわ)で生まれ
小学校5年に
浦和へ引っ越し
小学校は転校せずに浦和から通いました
家から南浦和駅へ歩いて20分
京浜東北線で赤羽駅まで行き
蓮根行きだったかな、のバスに乗り
小豆沢4丁目だったかな、で降り
前の登校班に加わって登校してたけれど
副班長だったかな
途中から
電車が遅れたり
バスが遅れたりして
どうしても班の集合に間に合わないこともあり
単独で学校へいくことが多くありました
みんなも分かってて、先に行くことになってた
私は裏門から、そーっと入り
校庭で朝礼とラジオ体操第一をしているのを
教室で覗いてました
さて
あのころのバスは
まだ、女性の車掌さんがいたんですよ!
なつかしいなあ

なつかしいといえば
そうそう
電車の切符も窓口で買ったりして
厚くて硬い紙で
改札にいる人が
その硬い切符を
ペンチとか植木ばさみのようなやつで
パチンと切符に切れ込みをいれるんですよ
それが、とってもリズミックに
空打ちしながら、ササッと
持ってきた人の指にはさまった切符を
いともたやすく切り打ち抜くのでしたよ
パチパチパッチン、パチパチパチパチ
トントットントトトトトン(改札の台をたたく音)
と、延々と、やりながら
定期券をチラっと見せて通り過ぎるひとの
顔つきや、手先も見ながら
区間が違うと
「あ、きみきみ!いかんよ!」
と駅員室に連行していったり
乗り越ししてきた人の
運賃を、即答して
その場でお金の精算までしていたんですねえ
すごいですよ!
おどろきの、おの字でしたねえ

バスの車掌さんも
女性らしい気遣いのある車掌ぶりで
なんか人間味あってよかったなあ、な〜んてね

駅員さんも
フルに人間力を発揮していましたよねえ
電車を操縦するのに憧れて
運転士をめざしたひとが多かったと思いますが
あの改札の、捌(さば)きに憧れたひとも
いたのでは? な〜んてね


posted by ogawan at 18:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 小学校時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月05日

小学校 担任 太田先生の 思い出(その2)

きのう、お客様からいただいた、阿波しじら織の入れ物に
花を挿して、玄関の壁に飾りましたよ

しじら.jpg

小学校4年から卒業まで
担任をしてくれた
太田先生は、無類の体育好きの先生でしたが
何となく、その服装、仕草、風情は
ぜんぜん飾りっ気が無く
のほほんとしてて、ぶっきらぼう風でもあり
自由人に近かったと思いましたね

当時、冬の教室には
ダルマストーブが置かれていました
燃料は石炭とコークスで
毎朝、当番が運んできて火をつけるのでした
給食の時間も先生は同じ給食を一緒に食べてました
添えられていた食パンを
ダルマストーブの上に置いて
焼いてから食べるんだけど
すぐ焦(こ)がしてしまってましたね
みんなが面白半分に真似しても、なんも言わなかったな

太田先生は
外遊びをよくさせましたが
それと同じくらい
詩や作文を書かせるのも、とっても好きでした
子供たちが、何を思ってるのか
読みながら楽しんでいるようで
書かせた詩や作文を
名前は言わないんだけれども
みんなの前で読んで聞かせるのでした
私は作文が苦手で
どちらかというと苦痛な時間だったんだけど
あるとき、文の最後に「終わりでござる」と書いたら
先生が読んでから
思い出し笑いのように苦笑して
私は先生に受けたことで気を良くした記憶があります

太田先生は、こんなこともよくやりました
「おい、みんな、目をつぶれ」
「先生が、いいって言うまで、絶対目を開けちゃ駄目だぞ!」
「じゃ、いいか、最初に、女子に聞くぞ、目あけんなよ」
「〇〇(ある男子の名前)が好きな子は、手を挙げろぉ」
‥(沈黙)(確認中らしい)
「よし、おろせ」
「次、〇〇が好きな子は、手を挙げろ」
こんな具合に、続いていくのでした
自分の名前が呼ばれたら、気になって気になって
薄目を開けようとしたら
「うす目もダメだぞぉ」

無邪気で素直な生徒を
把握しようということだったのでしょうか
とにかく他のクラスの先生とは
ひと味もふた味も違った先生だったと思います
だから
外側から見ていると、いい先生、わるい先生と
ふたつのレッテルが張られ
父兄の評価も、賛否両論で
二分していたようでしたね

卒業アルバムの寄せ書きに
太田先生は
たった一言、書いてくれました
「自由自在」と。
これについては
「おまえら、今はピンとこないかも知れんが…」
「いつか、分かる時が来るからな…」と言ってた
思えば、ちょっと、さみしそうな眼差しでしたね

太田先生
「自由自在」‥すてきな言葉を贈ってくれてたんだね
 
 
 


posted by ogawan at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 小学校時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月04日

小学校 担任 太田先生の 思い出

本川越駅行きを カシャ
電車1004.jpg

私は、今もそうですが
整体の仕事をしていながら
カラダが硬い部類の人間です
ストレッチはしているのですが
ですから
カラダが硬い人の気持ちはよくわかりますです、はい

思えば小学校の頃から
体育の時間
柔軟で前屈しても
ひざの裏がつっぱってジンジンして
いくらやっても、きつかったです
同級生のT子ちゃんはバレエを習っていて
担任の太田先生は
面白がってか、みんなの前で
おいT子、やってみろや、と言って
立った姿勢から左右に脚を開いていって
終いには地べたにぺたっとするのや
前後に脚を開いていって、ぺたっとするのや
ぺたっ、ぺたっと
完成された柔軟を見せられた日には、いつも
僕なんか、落ち込んだもんです

あの頃は
だいたい男子も女子も遊ぶことに熱中していたけど
習い事を始めている子がチラホラいたんですね

太田先生は、無類の体育好きの先生で
何かって言うとみんなを校庭に出させて運動の時間にしちゃいました
だから学期末になると
教科書の残りが沢山あって
超すっとばしの授業でしたね
4年生から卒業するまで3年間、担任でしたが

運動が苦手だった僕は
やらされた感が強かったのですね
ソフトボールは、打てず捕れず

あるときなんか、放課後に男子が駆り出されて
太田先生だけが打って
僕たちは全部守り、いわば先生の打撃練習
で、大人にしてみれば狭い校庭だから
ホームラン気味に校舎の窓に直撃 バリーン!
何枚割ったことか‥

ポートボール(バスケットボールみたいの)は
ボールを受け取るのが嫌でそっぽ向いて怒られたり
ドッジボールなど中では逃げ専門でした
すでに団体競技は
なじられるのが嫌でおとなしかったですね
結局それが悪循環だったんですが
今思えば、覇気の無い少年でした
そんな僕を太田先生は
けなさず、ナイーブだと言ってくれていました


走り高跳び(当時はベリーロールが主流)
低い跳び箱に手をついての前方倒立回転飛びとか
個人技は
男子が1人残らず出来るまでやらせる方針だったみたいで
いつも僕は最後の2〜3人の中に居て
つらかったなあ
出来た子たちは男子も女子もまわりで見ていて
そのころには、僕にも意中の女子がいたりして
出来なくても太田先生は
「もう、いいぞ」とは言ってくれなくて
かっこわるかったなあ
普通に、ふだんから
道路しかもアスファルトの上で前方倒立回転飛びを
目の前でやってしまう信じられない同級生がいたけれど
そういう男子や
おんなじように、やんちゃな女子は
太田先生の前で目を輝かせて
はしゃいでたよなあ
posted by ogawan at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 小学校時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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